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判子の罠

by 唐草 [2015/01/19]



 日本は判子文化の国である。どこに行っても判子、判子、判子。判さえあれば、事務処理はどんどん進んでいく。
 判子の利点は、誰が押しても同じシグネチャになるという事である。だが、それは同時に最大の弱点でもある。3Dプリンターのある今、一点もののはずの印鑑だって簡単に複製することができる。ましてやシャチハタとかの簡易認め印が流通している今、捺印された印影に本人を証明する要素なんてなにも存在しない。
 印影が本人証明となり得ないことをメリットと考えるのかデメリットと考えるのかで大きく意見が分かれることだろう。どちらとも言えないのなら、メリットとなるように活用するのが賢いやり方ではないだろうか?銀行印だとか会社印とかの公式な場面では、素直にルールに従うべきだ。でも、ローカルな環境で押される判にいちいち本当のシグネチャを求める必要は、ないのかもしれない。
 合理的に、そして迅速に物事が進む方が重要視されているような環境下では、厳密に印影を特定するような事は行われていない。捺印エリアに赤いものがあればOKというザルな状況だって少なくない。
 少なくともぼくの目の前には、そういう連中がごまんといた。
 完全に形式だけになっている確認印をもらうのが面倒な人間。押されていることしか確認しない人間。両者とも滞りなく処理が右から左に流れれば良いとしか考えていない。
 よく言えば合理的。悪く言えばルール無視なこんな考え方。
 一年半ぐらいずっとうまくいっていたのについにばれてしまった。いやーまいった、まいった。かなりピンチ。だがぼくは反省しない。次回からは、さらに合理化を進めねば旧態依然の判子文化に飲み込まれてしまう。