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多摩の山すら見えない

by 唐草 [2017/05/08]



 ついに連休が終わった。連休明け最初の授業が、午後からで本当に良かった。これならゆっくりと心の切換ができるだろう。
 午前11時過ぎの下り電車は、いつもと同じように空いている。乗客はまばらで、長いすの両端にしかいない。これなら隣の人のことを気にせずゆっくりと座っていられる。
 多摩川を渡る長い橋に差し掛かったとき、ぼくはいつものように座りながら振り返って窓の外にある富士山の姿を探していた。これはもう習慣である。
 当然のことながら、富士山の姿は見えなかった。空気の澄んだ冬の朝でもない限り、富士山の姿を見ることはできない。それはよく分かっているのだけれども、気象的な偶然が重なることを期待して富士山の姿を探してしまう。富士山のなだらかな山様には、その期待を賭けるだけの価値があるのだ。
 今日は、コンディションとしては最悪だった。晴れだというのに、雨が降っているときと同じぐらいに視界が利かなかった。富士山の前に見えるはずの多摩の山々さえも見えなかったのだ。
 これは、すべて黄砂のせいだ。そうに違いない。
 春先の厄介者は、洗濯物を汚し、洗ったばかりの車から輝きを奪うばかりでなく、ぼくの楽しみである富士山をも奪ったのだ。最近では、中国の大気汚染の影響でPM2.5まで運んできているとも言われている。誰からも嫌われている黄砂。悲しい自然現象である。
 そんな嫌われ者の黄砂。元を辿ると中国西部のゴビ砂漠の砂らしい。巻き上がる砂漠の風と上空を流れるジェット気流が、遠く離れた砂漠の砂粒を運んできている。平面的には古代のシルクロードと同じ道のりである。そう考えると、ちょっとだけ旅情が感じられなくもない。