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さよならキウイの木

by 唐草 [2017/12/01]



 畑でパワーショベルなどの重機が動いているのを見かけると「誰か死んだんだな」と思ってしまう。この時代、地価の高い東京で相続してまで農業を続けようという考えの人は少ないだろう。それに農業を志す人なら親が亡くなる前に畑を引き継いでいることだろう。
 今日も時々通る道沿いにある小さな畑で、その畑に合わせたように小さなパワーショベルがオレンジ色の腕をせっせと動かしていた。畑に植えられていた細い木を力任せに抜いていたようだった。
 昔は畑のばかりだった我が家周辺。土地持ちの農家の家長が亡くなる度に、畑の中に出来損ないのパッチワークのように住宅が建っていった。そのサイクルを繰り返している内にいつの間にか住宅街にパッチワークのように小さな畑が残っているという状況になっていた。まるで、オセロの終盤戦のようである。畑が次々にひっくり返されて住宅へと変貌している。
 かく言うぼくが住んでいる家も、その昔は畑だったらしい。あと数年で我が家近隣にある畑は全滅することだろう。農地が住宅地へと代わっていくことに異を唱えるつもりはないし、合理的な変化だとは分かっている。
 普段だったら先に述べたように「誰か死んだんだな」と思うだけで、特段の感慨もない。住宅が建ち始めれば、そこが畑だったことすら忘れてしまうだろう。
 でも、今日見た畑は違う。ぼくのちょっとしたお気に入りポイントだったのだ。
 その畑は、ここいらでは珍しいキウイフルーツの畑だったのだ。ぼくが知りうるキウイフルーツ畑は、ここしかない。
 スーパーに行けば簡単に買えるキウイフルーツ。珍しい果物でもなんでもない。ただ、その大半が輸入品で、日本の消費者が実っているところを見ることは稀だろう。キウイフルーツの木を描けと言われて筆を動かせる日本人はどのぐらいいるだろうか?きっとかなり少ないはずだ。
 キウイフルーツの畑は、まるでブドウ畑のようである。背の低い木を棚に這わせて育てていた。管理された枝なので、シーズンになると棚にいくつもの毛深いキウイフルーツがぶら下がっているのがよく見えたものだ。その毛深い姿は、およそ果物らしくない。どこか動物的な印象さえあった。
 その姿も、もう記憶の中にしかない。