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悪人になれない

by 唐草 [2018/10/13]



 『Skyrim』のように自由度の高いゲームだとプレーヤーは、善人にも悪人にもなれる。これはプレーヤーの選択でシナリオが分岐するということではない。プレーヤーの人物像の話である。
 自由度の高いゲームだとハチャメチャな振る舞いをすることができる。王様の前で衛兵と戦って宣戦布告することもできるし、お金に困れば強い魔物を倒すのではなく村人から奪えばいい。おつかいクエストが面倒なら依頼者を亡き者にすることだってできる。ドラクエの勇者のようにお行儀よく「はい」とだけ返事するのとは訳が違うのである。
 もちろん自由度の高いゲームでもドラクエの模範的な勇者のような振る舞いをすることだってできる。どう振る舞うかは、すべてプレーヤーの判断に委ねられているのである。
 とは言うものの、ぼくは殆どの場合ドラクエ勇者的な振る舞いをしてきた。それどころか、無断で家宅侵入をしてタンスを漁りツボを割り尽くすドラクエの勇者よりもまっとうな振る舞いをしてきたはずだ。
 なぜ暴力が正義となりうるゲームの世界でも小心者の小市民のように振る舞ってしまうのか?たとえゲームの世界の中でも、ぼくの中にある善悪の基準は揺るがないのだろうか?それとも鎧兜で身を固めていても小心さを隠すことはできないのだろうか?
 いや違う。相手がプログラム仕掛けのNPCなら盗んででも物を奪いたいと考えている。面倒なクエストだと依頼主がモンスターに見えることだてある。それなのに剣も銃も抜かないのには、理由がある。
 街の衛兵が強すぎるからだ。
 ゲームの中で犯罪行為を犯すと大抵の場合、衛兵とか守衛、警察官に追われることになる。ちょっとした罪なら賄賂でもみ消せるけれど度が過ぎると衛兵たちは、ぼくが天に選ばれた伝説の勇者であることなんてすっかり忘れて全力で殺しにかかってくる。奴らは強い。1対1のタイマン勝負なら勝てるかもしれないが、衛兵たちは巣を突かれた蜂のように湧いて出てくる。多勢に無勢である。調子に乗ると2度と街に近づけないなんてことになりかねない。
 村人のポケットの中に街1つと釣り合う価値のある宝なんて入っていない。犯罪者の烙印を押され賞金首になってしまうとトータルで損である。
 善悪からの判断ではなく、損得からの判断でぼくは勇者として振る舞っている。まさに現実と同じである。
 しかし、衛兵たちの強さはどうにかならないだろうか?伝説の装備で身を固めていても油断をすれば八つ裂きにされてしまう。彼らは街を守るのをやめて、魔王を倒しに行けばいいのに。