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Vs.バンクシー

by 唐草 [2019/02/12]



 関東で立て続けにバンクシー作品と思われるグラフィティーアートが見つかっている。本物かどうかはよく分からないが、本物であってほしいという願望が多くの人々の目を曇らせているように思える。
 作品が本物かどうかと同じぐらい注目されているのが、自治体の対応である。東京都は早々に本物だと決めつけて保存しようとしている。その一方で千葉県はただの落書きだと見なして消そうとしている。作品をどう扱うかには様々な考え方があると思うが、どちらのやり方も悪手であるとぼくは考えている。どちらも五十歩百歩な感じだが、東京都のやり方はたぶん模範的なワーストだろう。
 アートの価値って何で決まるのだろうか?札束が飛び回る現在の状況を見つめると一番重要なのは誰が描いたかである。先日もゴッホの贋作と思われていた作品が本物だと鑑定が覆った。その瞬間にくすんだ色の厚塗り油彩画の価値が急騰した。ネームバリューは重要かもしれないが、それって本当に一番大事なことなのだろうか?ぼくはそう考えてはない。一番重要なのは何が描かれているかである。見る者に何を伝えるかがアートの核心である。誰が描いたかなんてハッキリ言ってどうでもいい。
 バンクシーと思われる落書きを作者のことは忘れて眺めてみたらどう見えるだろう。腕の良いグラフィティーアートであることは確かだが、そこに心を動かすようなメッセージ性や忘れられぬ衝撃があっただろうか?残念ながらぼくの心を打つものはなかった。これを書いている今、絵を思い出そうとしても壁の色しか思い出せない。
 だからあの絵はアートのレベルではない。ただのテクニカルな落書きとしか言えない。
 まぁ、そんな落書きをありがたがる権威主義者を皮肉っているアートなのかもしれない。だとすれば、東京都のような反応は手のひらで踊らされているだけ。一方で、千葉のような反応をすれば権力によって表現が弾圧されているとも捉えられる。
 絵画としての価値は使ったスプレー分の価値しかない。でも、行動を含むインスタレーションだと考えればアートだと言える。今のところ作者の圧勝だ。
 じゃあ、どんな風に作品を取り扱えばバンクシー(またはその模倣者)を貶められるだろうか?
 ぼくの結論はこうだ。
 「有名アーティスト作品の横に絵を描こう」というキャンペーンを行って、作品の周囲を子供の絵で埋め尽くすという計画。暗いトンネルの壁面に書いてあるような、子供に無理やり書かせた大人のエゴ丸出しの下手な絵で埋め尽くすのだ。ありがたがるのでもなく、拒絶するのでもなく、作者が絶対に意図していないアプローチで作品を埋没させる。これが風刺家には一番堪えるのではないだろうか?
 と言うか、ぼくも壁に絵を描きたいんだ。