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境界を越えて

by 唐草 [2019/04/30]



 朝に見たTVニュース番組とお昼に見たTVニュース番組の違いが分からなかった。チャンネルを変えても同じものが流れ続けている。今日は、朝からずっと「平成最後の日」を連呼しているだけである。もう、あまりにも聞きすぎて「平成最後の日」という言葉がゲシュタルト崩壊気味である。
 確かにひとつの大きな区切りが訪れる。とは言え、これは何の区切りなんだろう?江戸時代とかなら改元は政治の区切りと言えたかもしれない。でも、今は違う。強いて言えば文化の区切りということになるのだろうか?とは言え、日本で一番に文化を継承していそうな方々の行為により伝統文化が受け継がれていく様子を「区切り」と呼ぶのには違和感がある。
 まぁ、正直言ってぼくらのような市井の人間にとっては「気分の区切り」というところが一番大きいかもしれない。
 さて、聞いた話によると昭和を知っている世代よりも、平成生まれの若者の方が元号に親しみを感じているらしい。生まれてこのかたずっと平成だったので、元号は変わることのない指標というイメージがあるのかもしれない。だから、若い世代の方が改元を大きなこととしてとらえているそうだ。
 でも、実際のところ元号が改まっても劇的なことなんてなにも起こらないだろう。明日の朝も、いつものように日が昇ってくるだけだ。新元号になったからと言って、朝日が青くなったりはしない。30年に一度の激レアイベントであるが、毎年の大晦日から元日にかけてと同じだろう。
 オッサンであるぼくは、昭和から平成への改元のタイミングを経験している。でも、幼かったので何も分からなかった。そして平成への改元を知っているということは、もっと大きな世界的な境界を経験しているということを意味する。
 ミレニアム(2000年代)への移行だ。これは日本だけの話では無い。世界中の話題だった。この時は、大晦日にカレーを食べているような境界に無頓着なぼくでさえ「ここから未来が始まるのではないか」とワクワクしていた。今と20年前を比較すれば大きな変化がある。でも、その変化は朝目覚めたら世界が変わっていたというようなドラスティックな変化ではなかった。雨だれが石を穿つような気が付くこともできない小さな変化の連続だった。
 世界には、元号や世紀と言った人間が勝手に決めた区切りが山ほどある。それらが改まると、なにか新しい気分になるのは確かだ。でも、勘違いしてはいけない。世界が変わったのでもなければ、新しいことが始まった訳でもない。
 改元は日常を違って見せる刺激的なスパイスかもしれないが、今日は「ぼくが生きている一日」だし、明日もたぶん「ぼくが生きている一日」。幻想の境界に足元をすくわることなく自分のペースで歩いていかないとね。