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雨宿り

by 唐草 [2019/08/21]



 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』で描かれた2015年の天気予報は、公開当時の天気予報の精度へのあてつけのように秒刻みの正確さで描かれていた。実際の2015年のでは映画の天気予報ほどの精度はなかった。映画で描かれた未来を通り越した今、天気予報の精度は25年前の想像を遥かに超えるレベルまで成長している。
 気象シミュレート用スーパーコンピューターが演算する予報の精度も高まったが、それ以上に観測の精度が向上している。人工衛星からのデータは5分刻みで更新されるし、Xバンドレーダーを活用したリアルタイム降雨観測もある。天空と地上から常に雨雲を見つめている時代となった。そして、神の目を介して見たかのように精緻な観測データが、どこにいてもリアルタイムで手元に届く時代になったのだ。映画の中のように「あと10秒で雨が止む」と言い切れる時代が来ている。
 過去を振り返って初めて大小様々な変化がもたらしてくれた未来としての今の姿を理解することができるのだ。もはや、今の当たり前が存在しない過去のほうがフィクションのようにさえ感じられる。
 テクノロジーの進化はときに慣習をガラリと変えてしまうこともある。携帯電話の普及が待ち合わせの概念を変えたように、天気予報の進化だって様々なものを変えたに違いない。そのひとつが雨宿りだろう。天を仰ぎながらいつ止むとも知れぬ雨の様子を伺い、ただ時が流れるのを待つというのんびりとした過ごし方は過去のものだ。
 素人でもスマホがあれば気象予報士顔負けの天気予想ができる。目の前に降る雨が、続くものなのか、はたまた通り雨なのかを容易に知ることができる。まるで時刻どおりにホームにやってくる電車を待つかのような正確さで雨をやり過ごせる。もう「雨宿り」という語に含まれていた当て所ない待ちぼうけという牧歌的な趣は消え去った。
 昨日のぼくもスマホの画面を通して刻一刻と変化する空模様を追っていた。画面の中ではオレンジ色の強雨ラインはまだぼくの頭上にはなった。天を仰がず、画面越しの情報だけを信じて自転車に跨った結果が、全身ずぶ濡れである。目に当たる雨水が痛いし、降りしきる雨粒が鼻の奥にまで入り込んで痛かった。濡れたというよりも痛いという感覚だけが残る雨の中の移動となった。自宅に戻り、脱衣所に飛び込んで着ていたものを絞ったら滝のように水が流れ出た。
 テクノロジーを過信するあまり、足を止めて空を見上げる余裕を失っていた。他人は、ぼくの行いをそう分析するかも知れない。その判断こそ、個を見つめていないステレオタイプなのだ。一過性の豪雨の到来を確信して、進んで雨に打たれることを選んだ愚か者こそがぼくなのである。