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文学賞への勘違い

by 唐草 [2019/10/17]



 先週は、ノーベル賞ウィークだった。今年も日本人研究者が受賞したのでメディアは大騒ぎ。日本人研究者が賞を受けると、ぼくもなんとなく誇らしく感じる。この感情は、受賞者をスポーツの日本代表選手のようにみなしている証拠だろう。でも、これまでに研究者に対してナショナルチームへ向けるようなエールを送ったことはあるだろうか?きっと無いはずだ。ぼくなんかは、受賞者の名前すら耳にしたことがなかった。
 そしてなにより受賞者は日本代表でもなんでも無い。個人で世界へ挑んだ人々である。ぼくら一般の人々が、受賞者に対して敬意や憧れを示すのは当然のことかもしれない。でも、自分たちの代表のようにみなすのは、お門違いだろう。自分たちの代表だとみなすのであれば、充電池を充電するたびに感謝の言葉を口にするぐらいの行動が必要だ。
 ノーベル賞ウィークになると必ず聞く名前がある。文学賞候補として村上春樹の名が挙がる。出版業界の期待に反して、今年も受賞はならなかった。毎年村上春樹を巡る狂騒を見ていて不思議に思うことがあった。
 なんで新刊を発表していない作家が受賞レースに名を連ねているんだろう?という素直な疑問である。
 科学系のノーベル3賞を受賞している研究者たちは、彼らの新発見の功績に対して賞が送られている。言い換えれば、研究論文で賞を掴み取っている。同じように考えれば、文学賞も優れた作品に対して授与されているのだろう。ぼくは長らくそう考えていた。だからこそ、毎年同じ作家の名前が挙げられるのが不思議で仕方がなかった。
 今年のぼくは一味違った。「不思議だな」と思って首をかしげるだけでなく、文学賞の仕組みを調べようと手を動かしたのだ。もっとも、Wikipediaを読んだだけなのだが。
 調査の結果、ぼくが大きな勘違いをしていたことが発覚した。
 文学賞は、優れた文学作品に送られる賞ではなかった。優れた作品を生み出した作家のキャリアに対して送られる賞だったのである。仮に優れた本を何冊も著したとしても、主義主張がブレブレだったら受賞はできないだろう。成果ではなく人物に送られるという点が、科学系の賞と決定的に違うのである。
 こういう評価軸の賞だからこそ、毎年同じ作家が候補者の予想に名を連ねるのである。もうしばらくは毎年恒例の騒ぎとして村上春樹の名前を聞けそうである。