カレンダー

2018/12
      
     

広告

Twitter

記事検索

ランダムボタン

天気予報への信頼

by 唐草 [2020/03/29]



 今朝、寝室のカーテンをちょっとめくった先には我が目を疑う光景が広がっていた。曇天の鈍い光の下で、何もかもが白く覆われていたからだ。季節外れの雪が5cmぐらい積もっていた。
 まさか本当に積もるほど雪が降るなんて。自分の鼻先が冷たく感じられていなければ、まだ夢をの中だろうと考えていたかもしれない。
 この雪は、数日前からしきりに警告されていた。天気予報で「季節外れの積雪になる」とか「真冬並みの寒さになる」とか言っていた記憶がある。それなのに、真冬でもあまり見ることのないような真っ白な光景は青天の霹靂としか言いようのない驚きをぼくにもたらした。
 雪が予想されていたにも関わらず驚いたということは、つまり心の底では予報を信じていなかったということになる。
 正直言って、ぼくは雪が降ったとしても予報のように積もることはないと高を括っていた。せいぜい車の屋根が薄っすらと白くなる程度だと思っていた。天気予報は、季節外れの天候に対しての危機感を煽るために少し大げさな言葉を使っていると受け止めていた。
 だからと言って、ぼくは常日頃から天気予報を疑ったりはしていない。むしろ厚い信頼を寄せている。雨具の用意も下着の選択もすべて天気予報に基づいている。盲目的に予報を信じきっているとさえ言える。
 それなのに今日の雪に限っては、頭から眉唾ものだと思いこんでいた。この信頼度の差は、どこから生まれてきたのだろう?
 3月の末の東京に雪が降る確率はどれぐらいだろうか?数年に一度のことだ。ましてや積もることなんて十数年に一度あるかないかの珍事である。それでも、寒い日が続いていたらもう少し真剣に降雪に思いを巡らせていたかもしれない。だが、昨日も一昨日も20℃を超える4月下旬並みの暖かさだった。そんな陽気の翌日に雪が降った記憶なんて一度もない。
 結局の所、ぼくはスーパーコンピューターがシミュレートした気象状況よりも、自分の記憶を信じていたのだ。普段天気予報を信じているのも、ぼくの経験に合致する予報だからなのだろう。信じているのは自分の経験であって、賢人の助言ではなかったのだ。
 窓の外の雪に気が教えてくれたのは、ぼくの頑固さと愚かさだった。