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ドキュメンタリー映画を撮ろう

by 唐草 [2021/09/26]



 芸術家や俳優、映画監督などのいわゆるクリエーターに密着したドキュメンタリー映画は多くある。ドキュメンタリー映画と一括にされる分野の中でも作家に密着する作品は特に人気があるように思える。「優れた作品はどのように生み出されているのか?」という人々の好奇心を満たしてくれるのがその理由だろう。
 ドキュメンタリー映画を見ていると人知れず苦悩する作家の姿から何かを作ることの光と影が見えてくる。天才ともてはやされる人々でも、時に悩み、躓き、苦しんでいる。そんな裏側を垣間見るとちょっとだけ安心したような気分になる。
 フィルムに記録された作家の姿は真実を映したものなのだろうか?記録者という第三者が制作現場に現れることで、作家が見栄を張ったりすることもあるだろう。また第三者の登場が作品に何らかの影響をあたえてしまうこともあるかもしれない。あたかも観測それ自体が量子の振る舞いを決めてしまうかのように。
 もし、ぼくが被写体になったらどうだろう?普段は荒れ狂った部屋で仕事をしている。そして、昔話で恩返しをする鶴のように絶対に製作途中を見せない。制作現場を撮影させてほしいと言われたら、カメラがやってくる前に全力で片付けをする。掃除機をかけて、本を本棚に戻すぐらいじゃ飽き足らず、窓を磨いて、床にワックスをする。画面映えを考えて観葉植物を買ってくるかもしれない。ぼくはそう言う見栄っ張りな人間だ。
 モデルルームのように片付いた部屋を撮影したら、それは偽りの記録になるのだろうか?制作現場の真実を記録するなら片付ける前の荒れた部屋を写すべきにも思える。
 しかし、荒れた部屋を記録したらぼくが他社の目を気にする見栄っ張りだという内面を記録できなくなる。
 もちろん荒れた部屋の記録と片付いた部屋の記録のどちらか一方だけが正解で、他方は無価値なんてことはない。でも、荒れた部屋の記録を狙うアプローチは他人の心の中へ土足で踏み込んでいるようで好きじゃない。ぼくは撮る側でも、取られる側でも片付いた部屋の方が良い。