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偉いってなんだろう?

by 唐草 [2023/01/05]



 去年、留学生向けの資料を作ったときに揉めたのを思い出した。揉めたと言ってもネットスラングっぽく言えば、ぼくが「お気持ちを示した」程度。
 問題となったのは資料の言葉遣い。直そうが、そのままだろうと資料を損なうものではない。むしろ一般の感覚なら小さな指摘をしたぼくの方が「面倒くさいヤツ」だろう。
 とは言え、そういう些細な部分ほど個人の感覚や信条が反映される。国語辞典的な正解が万人を納得させられる訳ではないし、使う場面や対象によっては辞典より適切な表現があるかもしれない。最良を目指すことは大切だ。だからといって最良を追求し続ける姿勢を自分の正しさの証明に用いるのは間違い。
 日本語に不慣れな留学生を相手にするのであれば、国語辞典でもカバーしきれない言葉の機微を議論の中心に据えるのは論外。多少精度が落ちようとも理解できる平易な言葉で書くのが正解だ。
 揉めたのが「偉い」という言葉。「権威」の平易な言い換えとして「偉い」を使うべきかが発端だった。
 ぼくは「偉い」という表現が嫌い。その思想信条が問題の原因だが、ぼくが嫌っていることを言っていなかったので事態は混迷を極めていた。
 最終的にはぼくが折れ、資料はそのままになった。不満が残るが、これがベストにもっとも近いことに異論はない。
 「偉い」を嫌っているのは、その評価が相対的なのか絶対的なのかが判断できないから。「偉い大臣」というのは、国家の枠組みの中で権力を与えられたことであり相対的な偉さである。もし大臣が利己的な暴走をすれば、その偉さは多くの人に害となる。また、ぼくは「天は人の上に人を造らず」的な思想なので、この類の偉さはぼくの中に存在しない。
 一方、弱者を助けることを「偉い」というのであれば、それは共通する価値観に基づく絶対的な偉さと言える。神を道徳の規範のシンボルだとするのであれば、それに沿うような偉さだ。神が居なくともその「偉さ」は普遍だ。
 この2つの偉さって全然違うもの。なので、資料の「偉い」がどちらなのか判断できないことが気に障った。それだけの話。