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理解できない

by 唐草 [2023/01/20]



 先日、「火焔型土器の造形には意味なんてなくて、芸術家肌の縄文人がハイテンションで作ったに違いない」という自説を披露した。根拠なんてなにもない。大学時代にものを作っていないと死んでしまいそうな連中を多数見たという個人的な経験に基づく仮説である。
 考古学者から見たら「考古学を侮辱するな」と叱られそうなぼくの根拠なき仮説。それでも芸術性の高いものに対して実用を重視した考えで解釈しようとするのは、なにか違うような気がしてならない。
 目の前にある遺物をどう捉え、どう理解するのか?ぼくと同じような考え方の人は居ないのだろうか?その辺が気になったので、軽くネットを探ってみた。
 素人のぼくが考えつくようなことを専門家が考えていない訳がない。期待以上の情報を得ることができた。
 一般向けに書かれたいくつかの(ぼくにとって心地よい)記事をまとめると次のような考え方があることがわかった。
 『自身の価値観に基づいて対象の文化を理解できると考えることそれ自体が驕り』。
 ぼくの想像を超えるかなり辛辣な意見である。
 この考え方は文化人類学での考え方のひとつらしい。自己批判的な考えに行き着いたのは、初期の人類学に存在したヨーロッパ人の驕りへの反省が根底にあるそうだ。その驕りとは「洗練された文化や文明を築いた(そしてキリスト教の神に祝福もされている)ヨーロッパ人なら原始的で劣った他民族のことなど容易に理解できるはず」という先入観。
 こういう考え方は今でも根深く残っているような気がする。人種差別の原因のいくつかの根底はこの辺にありそうだ。
 きっと研究を進めていく内に壁にぶち当たったのだろう。そこで、学者たちは反省をした。現在の研究は遺物だけを見て「ああだ、こうだ」と言うのではなく、相手の文化に身を投じ理屈だけでない理解を深めることを重視しているそうだ。
 要するに自分のものさしで、知らない相手を測ろうとするなということ。
 そう考えるとぼくのハイテンション仮説も悪くないように思えてくる。でも、ここに大きな落とし穴がある。この仮説はぼくの「ものさし」に基づいている。奥が深いぜ、文化人類学。