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アートは平等

by 唐草 [2022/10/21]



 どういうわけか今週は「障害者アート」という言葉を立て続けに耳にした。そこで確信したことがある。
 ぼくは「障害者アート」がキライだ。そんな枠組はなくなればいいと思っている。これはぼくの偽らざる本音である。
 ただ、勘違いしないでほしい。ぼくがキライなのは、障害のある方が作った作品でも、彼らがハンディキャップをものともせず制作することでもない。障害のある方が作った作品をただの「アート」と呼ばずに「障害者アート」と区別して呼ぶことがキライなのだ。許せないレベルで嫌っている。
 アートは誰が作ったかなんて関係ない。工芸作品と違って精度はアート評価の主軸にはなりえない。重要なのは、自分の内に秘めた作者の魂の叫びとでも呼ぶべき「何か」をどれだけその時代を生きる他の人に見せつけることができたかどうかだけ。
 作品を通して見知らぬ作者の姿や考えに想いを馳せるのがアートのあるべき姿だと考えている。だから、作品を見る前に「作者はこんな人です」とフィルターを掛けるのは言語道断。何も知らない状態で作品が発する圧をどう捉えるかこそアート鑑賞の醍醐味。
 アートというのは、言葉や文化を超えて誰もが自由に発信できる真に平等なもの。だからこそ鑑賞する側もこの世界にあるすべての作品を同じ土台で評価するべき。教育されていない人が作ったからと言って評価を下げることも、障害を乗り越えて作成したと美談で包むのもどちらも作品を冒涜している。誰が作ったとしてもクソな作品はクソでしか無いし、同じように素晴らしい作品は何の注釈も能書きもなくても素晴らしい。
 ゴッホが精神を病んでいたことは有名だが誰も障害者アートとは言わない。もし今活躍している芸術家が事故で障害を負ったら、その瞬間から作品は障害者アートに変わるのか?そんなことはない。アートはアートのままだ。
 このように考えているので、「障害者アート」という枠組みはアートという平等な土俵から障害者を排除する動きにしか見えない。せっかくハンディキャップに影響されず平等な舞台に立てるチャンスを潰しているようだ。