by 唐草 [2023/01/09]
「縄文土器を思い浮かべて」と言われたら『火焔型土器』を想像する人が多いのではないか?ぼくもその一人だ。
それは、火焔型土器が一度見たら忘れられない力強さと異様さに満ちているから。他に類を見ない造形を頭から振り払うのは容易でない。
とは言え、火焔型土器を一般的な縄文土器とすることは間違い。縄文土器は、もっと単純な形で、ここまで立体的な装飾はほとんどない。波のような浮き彫りに縄目の跡がついているものがほとんど。
火焔型土器は例外中の例外。出土した時代も土地も狭い範囲に限られる。
それなのに縄文時代代表のような扱いを受けているのは、力強く執拗な意匠の為せる技だろう。
この意匠は考古学者を悩ませている。過度な装飾は日常使いに適さない。誰だってこんなので煮炊きしたくない。縄文人だって同じだろう。日常使いでないならば、祭事用の特別なものと解釈するのが今の考古学。
ぼくは祭事説に否定的。そもそも形に意味があるという仮定がアカデミックな偏見に基づいているのではないか?
ぼくは造形を生業とする人々に近い人生を歩んできた。ぼくも作るのが好きで、アイデアをアウトプットできないのはトイレを我慢するぐらい辛い。だから、誰に見せるわけでもないのに何かを作っている。ぼくにとって制作は承認欲求を満たす行為ではなく生理現象に近い。
大学時代から作るのが大好きなヤツらを大勢見てきた。本当にヤバいヤツらは息をするように何かを作り続けている。たぶん作っていないと死ぬ。彼らにとって作ることは目的を達するための手段ではない。作ることそれ自体が最大の目的なのだ。
そういう人間は時代を問わずいるはず。そんなヤツに粘土を渡せば実用など微塵も考えずに脳裏に浮かんだ形をハイテンションで具現化していくだろう。
火焔型土器もそんな風に生まれたのではないか。
自己内面の発露、つまりアートだ。理屈をこねくり回して目的を想像するだけ無駄。だって、そんなもの端から無いんだから。それが数千年経ってもぼくらの心を捉えて離さない理由ではないだろうか。
この説の客観的証拠はない。でも、そういうことをやりかねないヤツに大勢心当たりがある。