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2012/03
    
       

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あれから1年

by 唐草 [2012/03/11]



 大震災から1年が経過した。それぞれが胸に秘める想いは千差万別だろう。「もう一年も経つのか」、「まだ一年しか経たないのか」、「あんな地震はもういやだ」、「いつ地震が来るか分からないから万全の備えを」、「まだ悲しい」、「1年を1つの区切りとする」。挙げていったらキリはないだろう。
 今日が日曜日だったこともあって、ぼくはいつもの週末のように輪郭を失って溶けていた。起きているだけでなにもしていないバブルスライムのようなありさま。地震発生時刻も取り立てて意識することなく過ごしていた。でもいつもより融解度は高いようで、ちゃんと箱の中で溶けておかないと明日の朝には腕とかなくなっていそうな感じだった。たぶん、意識的に震災のことは考えないようにしていたのかもしれない。
 それでもメディアの騒がしさに気を足られて午後9時頃にふと考えてしまった。昨年の今頃は歩いていたなと。
 これでようやく理解した。やはりぼくにとって震災も津波もTVの向こうの世界の出来事としてしか理解していない。震度5クラスの揺れを体験したのは事実だが、ぼくにとっての3/11は帰宅困難者になってしまったことでしかない。
 でも、ぼくはそれで構わないと思っている。震災の記憶の捉え方まで指図されるつもりはない。
 また、ぼくは今日が1年だとは考えていないとも感じた。震災発生から366日目(今年が閏年だったので)だと思っている。ぼくたちは、自分たちが作った暦という区切りに大きく縛られている。確かに1年という区切りは天文学的な理にかなった考え方ではある。でも、人の心を区切るのに適切な単位なのかは分からない。いずれにせよ、大きな出来事があった日から1日1日を重ねて今日にたどり着いたのは確かな事実だ。
 1年というカレンダー上の区切りに縛られ、思い出したかのように「1年だからどうこう」という考え方はしたくない。一昨日が昨日を作り、昨日が今日を作る。そして、今日が明日を作る。この小さな積み重ねが、1年後に大きな成果になっていると信じている。365日目だけが特別な訳ではない。昨日も今日も明日もみな等しく同じ。こう考えているぼくからすると、1周年ということで騒いでいる人たちは毎日の積み重ねが見えていないようにも見える。そんな1周年を巡る喧騒が耳に入った366日目。