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単語カード

by 唐草 [2018/10/19]



 朝の電車の中で懐かしいものを見た。単語カードを使って英語の勉強をしている学生がいたのだ。遊びも教材も何でもスマホに入れられるこの時代に古典的な学習アイテムを使っていることにちょっとした驚きを感じてしまった。
 スポーツウェアっぽい装いだったので高校生か大学生か判断はできなかった。200枚ぐらいありそうな量の小さな短冊状のカードを左手で握りしめて、1枚1枚めくってはカードの束の一番下に送っていた。ギリギリ人と人がぶつからない程度に混雑した車内で単語カードをめくる動作は否が応にも目立ってしまう。ましてやぼくの目の前でヒラヒラとカードをめくられていたら、ついつい目で追ってしまう。
 カードはこの季節の芝生を連想させるようなやや黄色味を帯びた明るい緑色だった。カードには英単語ではなくイディオムが印刷されていた。ぼくも大学受験のときにたくさんのイディオムを覚えようと努力したものだ。
 単語カードと言うと自分でせっせと書いて用意するイメージが強かった。でも、ぼくの目の前にいる学生は既成品のカードを使っている。今は、そんなものも売られているのか。
 勉強の方法には、たくさんのやり方がある。自分に適した勉強方法を見つけられるかどうかは、中学・高校生活を決定づける重要な要素である。ある人は教科書を音読するかもしれない。別の人はノートに何十回と書き込むかもしれない。教科書よりも問題集を好む人もいるだろう。すべてを暗記しようと努力する人もいれば、要点を絞って暗記しようとする人もいる。様々なアプローチのうちの1つが、単語カードなのだろう。
 だが、ぼくは単語カードを好きになれなかった。ぼくが中学生の時、歴史のテスト勉強に苦戦しているのを見かねた親が単語カードを勧めてくれた。白紙のカードに重要な人物の名前とか年号とかを書き込んでみたのだが、数枚書いて飽きてしまった。小さなカードにあれこれ書くのが面倒すぎてぼくには耐えられなかった。以来単語カードは、ぼくには合わない勉強方法として認識されている。
 ぼくの目の前にいる学生は、ぎこちなくカードをめくっていた。彼の手元をよく見るとカードは、リングなどで束ねられていなかった。トランプ(形状的には花札か?)のようにただ重ねているだけだった。200枚ぐらいの束を片手で支えているのはいかにも窮屈そうだった。イヤな予感がすると思ったら、案の定彼はカードをぶち撒けてしまった。混んだ車内なので拾うのも手伝えない。電車内での貴重な勉強時間は、カード拾いという生産性のない行為になってしまった。
 外で単語カードを使うなら束ねようよ。時々カードの順番をシャッフル必要もあるけれど、それは混んだ電車の中でやるべき行為ではないと思う。なにより単語カードなんて勉強法を選んでいなければ、こんな面倒なことには巻き込まれなかったはずだ。やはり、ぼくが中学生の時に下した判断は正しかったようだ。